神林浴とは

魔除け天神では、
ここ鎮守の森、神社の自然における森林浴を

神林浴”(しんりんよく) と命名します。



【 以下、話は長いので、先に要点を言いますと^^ 】

疲れたな、と感じたときには、

魔除け天神の神林浴にいらしてください。

あなたの「心」と「体」が、元氣になります!





いきなりですが、この写真を見てください。


神林浴-観察1



どんな風に見えますか?



枯れ落ちた紅葉の葉が一面にある、寂しい感じに見えるでしょうか。


これは当神社の、秋の境内の様子ですが、
毎年この時期、近所の子供達が、
きれいな紅葉の葉っぱを拾いにやってきます。


子供達は、黄色くて、かわいらしい落ち葉を見つけると、
「あっ、あったー」と、目をきらきらさせて歓びます。

そんな、子供達になったつもりでこの写真を見ると、どうでしょう、
さっきとは違った感じに見えるのではないでしょうか。



人は、自分にとっての見方が全てだと思ってしまいますが、
ましてや、悩みの中にいると、世界は暗く辛いものにしか見えず、

その辛い世界も最初から存在するものと思い込み、それが
ますます違う見方をできないようにしてしまいます。




さっきの写真をもう一度見てください。
何か気付きますか?



実は、写真の右下に、牛(当神社の臥牛)が隠れていませんか?

見つかりました?


さらに、写真上端の玉垣の1本が、竹になっていませんか?

ほら、あったでしょう。



このように、
写真の見方が違うだけでなく、実際に写真にあるものでさえも、
見えてなかったんじゃないでしょうか。




もう一つ、次の写真を見てみてください。

これは、お宮の坂(正面参道)の紅葉の写真です。



神林浴-観察2



何か気付きましたか?



そうです!
中央左寄りの紅葉の葉の中に
獅子(当神社の屋根瓦にある獅子像)が紛れていますね。


・・でも、
それだけじゃないんです。


!?


よく見ると、上側の電線に、音符が並んでませんか?


五本の電線を、楽譜の五線に見立てて、
そこにト音記号や♭記号や各種音符が描かれています。

見つかりました?




・・こんなふうに、私達は、見ているようで、見てないんです。


別の言い方すれば、
ただ見ているだけで、ちゃんと観察していないんです。



枯葉がある風景は秋の寂しいもの・・
枯葉の風景の中に牛が居たり玉垣に竹があるはずがない・・

そういう自分の見方が正しいと思ってしまうだけでなく、

紅葉という「言葉」や、
変な箇所を探し出そうとする「目的」自体が、
"紅葉"以外や、その"目的"以外のことを、見えなくしてしまうのです。




そのことにも加え、
(いつの時代だってそう、生きていくのは大変です)

私達は、時間に追われ、
膨大な情報を浴びせかけられ、頭の中は休まる暇もない。


健康のこと、家族のこと、仕事のこと、お金のこと、人間関係のこと、
怒り、悲しみ、不安、、そりゃ、悩みも生じますよね。


悩みにどっぷりつかり、
思考が囚われてしまい(悩みと一体化してしまい)、
悩みのフィルターでしか世界が見れなくなってきます。

周囲に意識を向ける余裕だって失われてきます。







あなたに必要なのは、一人静かに過ごす時間



悩みの霧で覆われた思考を、
頭の中で渦巻いているその思考を、
まずは一旦、停止させる必要があります。




そのためにも、自然の中に、身を置いてみてください。


ネットから離れ、部屋から出て、
直接、自然のある場所まで体を運び、

スマホを脇において、顔を上げ、周囲を見渡し、
その瞬間その場所にいることを意識して、
自然に心をゆだねてみてください。

言葉によってではなく、実際に、体験することがいかに大事か。



きらきら輝く木々の葉

光がつくる影

刻々と変化する雲の形

雲間から差し込む光の筋



ゆらめく水面に映る空

ザーッと地面を打つ強い雨

風で揺れる木々のざわめき

夕日に染められたうろこ雲



山から聞こえる鳥のさえずり

雨降り前に一斉に鳴くカエル

朝夕にカナカナと鳴くヒグラシ

草むらからの小さな虫の音


遠くから聞こえてくる、道路を行き交う車の音

紙垂がゆれてカサカサとふれ合う音も



山の木々や草々が発する匂い

季節の花から漂ってくる香り


雨に叩かれた地面からの土埃の匂い

吹き抜ける風が肌に触れるその感じも

大地に流れる見えない氣をも



景色だけでなく、音で、匂いで、肌で、、
あなたの五感を使って感じてください。

そして、自然を、あるがままに見て「観察」してください。



ただし、
“観察 = 細部を詳細に見る”、ということではないです。


観察において重要なことは、

まず、「全体」を感じ、次に「部分(細部)」を感じ、

そして、その「部分と全体との関係性」を感じること。
(全体を観ながら、部分を、全体との関係性の中で観るのです)


全ては互いに関係し合ってます。
それぞれのつながりに、思いを馳せてみてください。

すると、見えないものが見えてきます。
これまで見えていなかったものが見えてくることに、気づきます。



大事なものは、目に見えません。

本質は、見えるものの背後に潜んでいます。





ところで、人の身体も自然の一部、



自身の体についても、同じように観察してみてください。

痛いところとか、調子が良くないところとか、
気になる箇所はありますか? そこに意識を向けてみてください。

どんな感じがして、どんなイメージが浮かんできますか?



身体の箇所でなくても、
何気ない動作にだって意識を向けてみてください。

その箇所に声を与えてあげてもいいです。


身体の声に耳を傾けて、身体と対話する。



何と言っていますか? あなたに何を訴えかけてますか?


そして、さらにその奥には、何がありますか?





本質が、自然の現象として現れているように、
あなた自身も気づいていない心の本質が、
身体の現象として現れ続けています。


どうか、無言の身体が訴えている深いサインに、
気づいてあげてください。


自然に対しても、身体に対しても、
気づくことができれば、それは役割を終え、
統合されて元の一つに還っていきます。



自然に対する気づき、自分の身体に対する気づき、
これらこそが、「気づき」です。


そして、「気づき」は、癒しであり、

ケガレ(氣枯れ;穢れ)を祓う=心の魔を祓うことでもあります。



本当はこの世界は氣に満ちあふれていて、
私達も良い氣をいっぱい持っているんですが、

日々の生活を送っていると、いつしかその氣が枯れてくる。


でも、穢れが祓われることで、
枯れていた氣が、停滞し淀んでいた氣が再び流れ始め、
良い氣が全身を巡るようになります。


「気づき」によって、氣がよみがえる・氣が元に還る、

すなわち“元氣”になるのです。








・・
ここまで読んでくださってありがとうございます。



でも、さらに深くを求める方に、、

・・





これまで、「観察する」ということをしてきましたが、
ちゃんと観察することができるようになったら、
今度は、「観察を、しない」。

(最初から観察しないことと、観察できるようになった上で
 観察をしないこととは、似て非なるものです)



これまでのように、
観察しようとすることは、集中して見ようとすることであり、
集中するには、集中する対象が必要となり、
集中している自分(私)と、集中する対象が生じる。

すなわち、
観察する者と観察されるもの、いわゆる二元性が生じてしまう。


簡単に言うと、

観察することは、私とそれ以外とを分け隔ててしまう、
もともと一つである世界を二つに分離してしまう行為
でもあるということです。




では、観察しないとは、どういうことか。



それは、

全ての思考を停止し、

なにかを見よう感じようという意志も目的も持たず、


ただ、“沈黙”の中に身を置くことなのです。



あらゆる言葉、意見、意図、判断、執着、記憶、
気分、感情などの精神の働きを終わらせ、

いかなる認知行動もなしに、

ただひたすらに、自然の中に身を置いて、


自然、この世界の背後にある深い静けさ、

“静寂”につつまれること。



~ この静寂につつまれることが、真の瞑想 ~





しかし私達は、常に思考する生き物です。

思考からは、分かった気になってしまう便利な「言葉」や、
それ以外を見えなくしてしまう「目的・信念」、
主体的に行動しているようで実は主体性を失わせる「依存」
なども生んでしまう。

そして思考は、
自ら作り出した世界へと自分自身を逃避させてしまう。





忘れてはいけないことがあります。

それは、
「思考することができるのは、知っていることのみ」
ということ。

そして、
「神様は、人が知ることのできない人智を超えた未知のもの」
ということ。



 ◆◆ 神という言葉は神そのものではなく、
    神という言葉を知っているからといって
    神を知っているわけではない。

 ◆◆ 神を追い求めるという行為も、その
    追い求めている神自体が、既に自分が
    知っている知識から作り出したものに
    なってしまっている。


つまりは、

思考によって神様(自然)を理解し、

思考によって神様(自然の本質)に近づこうとすればするほど、

神様は遠のく - 聖なる癒しの根源から離れてしまうということです。




そのことに加え、

人は、自分と向き合い、沈黙・静寂の世界に身を置くことを、恐れる。


一人で居るという孤独や寂しさ、
そこはかとない不安、空虚さを感じてしまうから。

自分という"個"が消えてしまいそうな恐怖を感じてしまうから。



(・・ほんと、怖いですよね。。
でも、だからこそ、人として挑戦する価値が高いんでしょうし、
この世界はいつも巧妙に仕組まれているので、逆に、こういう
ところに、とてつもなく大きな幸せが隠されている気がします)



ええ、
ここまで読み進めて下さるようなあなたなら、、できますとも!



たとえ怖くても、

独り、自分と向き合い、

沈黙、静寂の中に身をゆだねる。






やがて、あなたは知ることになります。



「ああ、私は一人なんかじゃなかった。みんなと、つながってる」

そして、

「私が観ているものは、風景じゃなくて、風景の中の私自身なんだ」

「自分は自然の一部ではなく、この自然こそが自分そのものなんだ」と。




見る者は見られる者となり、

観察する者は観察されるものと一つになって、境目がなくなる。

すなわち、



自分=世界






このとき、

“自分の中に他を観る” “他の中に自分を観る”

“部分の中に全体を観る” “全体の中に部分を観る”

“過去の中に未来を観る” “未来の中に過去を観る”


つまり、
内が外で外が内、部分が全体で全体が部分、時間が流れ時間が戻る、

これら矛盾が一つに結びついた世界(結一世:ムスヒヨ)が立ち現れ、

そこに、真なる自己が在る。



そしてそのとき、

心の空間は、その世界に拡がり、

あなたの心は、世界に満ちた慈愛とともに在るようになる。


そして、

神の目線(慈愛)を持った世界の主として、

世界に生じる現象の、その陰と陽を包み込んで統合し、
時間と空間の制約から解き放たれた、元の一つ(全ての源)へと還していく。


いわゆる、奇跡、を起こしながら。











・・
ここで終りではないんです。
・・




そしてさらに、その先に、


この世界の深奥を知る瞬間がやってきます。





「この世界に、"わたし" は、いない」






この世界は、

無限の意識が、無限の意識自身を認識し、無限の意識自身を体験している。

無限の意識が、それ自身を〔「あるがまま」以外のもの 〕と見なすことで、

自己を体験している。




〔「あるがまま」以外のもの 〕とは、この世界の全ての事象。

すなわち、

心、自我、身体、他人、物質、宇宙、対象物の知覚、観念、想念、感情、

あらゆる意味、あらゆる現象、そして、

それを観察している(と思い込んでいる)「私」。



「私」は無限の意識の反映でしかない。よって「私でさえも、私ではない」。


この気づきこそが、真の気づきであり、

自然の中で、実際に体験した者だけに訪れる境地。





この世界(自然)を「あるがまま」に見て観察し、

全ての思考が停止された静けさの中で、

その観察をしていた "わたし" が消えると、

そこに残るのは、無限の意識(根源的な純粋意識)。



なので、自分=世界 というよりも、

自分も無い、世界も無い、
あるのは無限の意識そのものだけ。



そしてこの無限の意識こそが、

これまで "わたし" によって覆い隠されていた、

真の美しさ。聖なるもの。


美としての、聖なるものとしてのあなたが、ただ、そこにある。


(厳密には、"無限の意識" "真の美しさ" "聖なるもの" といった
言葉さえも使えない。 言葉ではなく例えば "・・・" のように表現
したとしても、やはりこれも人が設定した記号-シンボルなので使えない)








別の言い方をすれば、


最初、部分であったあなたが、自分は全体である、と観れるようになり、

やがて、深い瞑想の中、自分が消えることで部分も消え、
部分はそのまま全体そのもの(無:絶対無、純粋本質)となる。

そして、その全体性(無が秘める神的エネルギー)を持ったまま、
元の部分へと帰ってきます。



有心から無心の境地* へと至り、その境地から戻ってきて、
これまで有心で見ていた事象を、無心の目で観ることが可能となる。


それは、
あなたの魂が絶対無に直接触れたことで、
魂の霧が祓われ、無のエネルギーと共鳴し、
元々あなた自身が秘めていた
聖なるもの・奇跡を起こす神秘の力が
自ら輝き始めたことを意味します。



* 無心の境地とは:
世界はそれぞれが固有の周波数で振動しているが、
"我"の周波数が消えていき、謂わば“無”の澄んだ周波数と
同期(同調)するようになった(無の周波数そのものとなった)状態。

体は消え、心も消え、
魂が、自然の中に融けこんだ(自然と一体化した)状態。

「因果の世界」(=原因から結果が生じる、時間の流れがある世界
 :因果律に支配された人の世界)に、
「同時の世界」(=始まりもなく終わりもなく全てが同時に存在する世界
 :因果律を超えた神の世界)が触れ、
その接点(境目)にひらいた時空。




あなたは、もう、前のあなたではない。








これらのことは、単に頭で理解すれば済むという話ではなく、

実際に体を動かして自然の中まで移動し、
体全体を通して直接的に経験(本質直観)しなければ
辿り着くことは難しい。

自然を外から観察し、分析し、理屈をこねて説明しようとする
近代科学の手法だけでは、自分がそこに含まれていなければ、
本当の自然の、生きた形での理解には近づけない。



無とは、何も起こらない静的なものではなく、
この世界を創造し続けているエネルギーが充満した
動的(ダイナミック)な世界。


本質に対して、ほんの僅かでも意識が働き、知性が働き始めれば、
本質はたちまちに姿を消して隠れてしまう。


一切の思考を停止して、すなわち、「頭」を使わずに、
静の中にある動に触れるには、「体」が必要となる。



神林浴の極意は、この、直接体験にあります。












最後まで、ありがとうございます。


いろいろ言いましたが、

いずれにしても、
神社は、太古の昔から、神様がいらっしゃる聖なる場所であり、
あなたの身近にある癒しの地、心と身体のいわば病院です。

ここで書いたこと以外にも、具体的な恩恵がいろいろあります。



ですので、

日々の生活で疲れたら、

氣が枯れたと思ったら、

神林浴にいらしてください。


神林を浴びて、心の魔を洗い流してください。





神社の自然が、あなたを待っています。